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  • [書籍]読みやすい文章にする効果的なひと工夫|書籍「頭がいい人の文章の書き方」
  • 文章力とは、この世を生きる力である  誰も教えてくれない人を動かす文章術
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私たちは「客観的現実」でなく「体験」をベースに生きる他ない
   ⇒ありとあらゆるものの全体としての<世界>を問題化する場合、科学的方法に裏打ちされた共同主観的認識としての「客観的現実」だけでなく、現に私たちが<世界>をどう「体験」しているのかに実存的に注目することも大切


   私たちが<世界>をどう「体験」するかをめぐる法則性に注目    ユング

<世界体験>の法則性

   <世界>が法則的に記述できることが明らかになるほど、なぜ別の法則ではなくその法則によって支配された<世界>があるのかという「端的な事実」━━原初的な偶発性━━が浮かび上がる。この「端的な事実」に驚くことが<世界体験>に相当する




ディストピア(破壊郷)での「世界感覚の変容」
日常生活の中で週末世界の到来が目前に迫れば、パニックになるけど・・・

<世界体験>


<終わりなき日常>の停滞を抱えた平成の「クソ社会」
<終わりなき日常>が蔓延する平成の<社会>はクソ

★終わりなき日常・・・社会が成熟した90年代後半、努力への信頼度が高い「頑張れば報われる」社会は、努力への信頼度が急落する「頑張っても報われない」社会に変貌
      ⇒当時の社会を読み解くために宮台真司が使い始めたキーワード

   停滞・鬱屈


鬱屈とした終わりなき日常と正面から向き合うのを嫌がるため、ハルヒや新世紀エヴァンゲリオンといった、あえて(架空の)世界の終りをテーマにした作品が好まれる

「卑俗さへの祝福」
「入れ替え可能性ゆえの入れ替え不可能性」

映画の撮影・編集・表現技法は高度化するものの、ストーリーは定型化・画一化して過去の作品の焼き直しに過ぎなくなった。
   ⇒ウェルメイド化された作品の数々

日本ではコミュニケーション・ツールとして映画や音楽が消費される
  ⇒多少つまらなくても、クチコミの話題に乗るために消費される
          ex 「kagerou」「もしドラ」「マトリックス・リローテッド」
   作品の質よりも話題性

※これに対して、アメリカでは「つまらなかった」との口コミがあると失敗する

「ハルヒ」や「けいおん」は内容以上に爆発的な話題性を持ったので、内容どうこうではなく声優がもてはやされた
   話題性とは別に、中身の享受可能性ゆえに映画を観る気にさせる批評が要求される

★エディプス的モチーフ・・・母親を確保しようとして父親に強い対抗心を抱く少年の心を題材としたもの

90年代以降の音楽は、コミュニケーションのネタとなって細分化した島宇宙をブリッジ



  成熟社会によって島宇宙化が進むと、かつて存在した「一億総勘違い」は有り得なくなる。同じく、成熟社会化によって流動性が高まると、「三年経てば大笑い」的なディープなコミットメントが回避され、単なるアメニティ志向が前景化する。

「」「」




p.46



005 <世界>の指し示しに成功した映画『IN THIS WORLD』と、<社会>へと閉ざされた映画『アンテナ』

社会システム理論における宗教分析の枠組み
    宗教…「前提を欠いた偶発性を無害にするものとして受容可能にする機能的装置の総体」


      ①<行為系>宗教・・・前提を欠いた偶発性に対処可能な行為<呪術>
              ⇒現世利益追求型の「幸せになりたい」的な宗教
      ②<体験系>宗教・・・前提を欠いた偶発性を受容可能な体験様式<心や体の構え>
              ⇒自己意味追求型の「ここはどこ?私は誰?」的な宗教
        ※通常は一つの社会内に、あるいは一つの宗教内に、両者が混在している

         ⇒<体験系>宗教の分類
           Ⅰ<修養系>・・・<世界>の在り方は自分次第だと考え、自分を調整しようとする(自己極大化戦略)
           Ⅱ<黙示録系>・・・<世界>の在り方を宿命だと捉え、宿命の下での自らの使命の自覚を試みる
                       (自己極少化戦略)

  私たちは普段、<社会>のポジショニングにあくせくしている。    ⇒正社員/非正規社員
ところが<世界>の不意な<訪れ>に遭遇した瞬間、<社会>という全体性が、それ自体「ありそうもないもの」
として再把握され、<社会>内のポジショニングにあくせくして苦悩する自意識が癒される。


<世界>は根源的に未規定

<修養系>宗教も<黙示録系>宗教も、サイファ━━例えば超越神━━のデコード(解読)を通じて、<世界>の根源的未規定性についての同一認識に至りうる。

暗示的

「生きにくい自傷系少女の妄想」

<社会>の中にも異なる時間が流れる。<社会>の外にも異なる時間が流れる。

★複雑な社会システムでは、人々がそれぞれ異なる時間を生きる★

個人が生きる<社会>的時間のありそうもなさ








006 自らの限界を知る者同士の入れ替え不能な絆を描く映画『4人の食卓』に、自らの限界を知る者が、不可能と知りつつ不可能な夢を見る営みを見出す

              期待外れに対する免疫がない!!

  「限界状況を経ずして人の本当のポテンシャリティ(潜在能力)は分からない!!」
     ⇒イザとなったら逃げる奴なのか、留まる奴なのか、パニックに陥る奴なのか、冷静でいられる奴なのか、イザとなる前には分からない。
     だから、イザとなる前は、どんな好材料があろうとも、究極的には相手を信じない。

         
限界状況での期待外れを経験した者の多くは、初めから「ダメ元」的に身構えていられる。期待外れに対する免疫があるから、むしろ裏切りを怖がらずに、
かつてよりもずっと他人を信頼できるようになる


期待外れを事前に身構える方法
  ⇒期待外れによってパニックにならないように、(社会に対する)コミットメント(熱心な関わり)を回避する方向に身構える

    限界状況での裏切りを何度も経験したことのあるものは、裏切り状況で「首の皮一枚」になったときに露呈した「自分の限界」を知っている。
   だから「自分の限界」の範囲内に収まると想定できる限り、期待外れに怯える必要が免除される

 逆に、ありうる期待外れについての情報を手にしつつも、限界状況で露呈する「自分の限界」を知らない者は、マージンを大き目に取ってリスクをヘッジする以外にない。
ゲーム理論で言えば、マキシミン戦略(できる限り無難な選択)を取ろうとする。





限界を試されていない自分の入れ替え可能性
  近代社会が成熟期を迎え、社会システムの多様性と流動性が高まり、かつ情報化が進展すると、かつては想像だにしなかったことが「あり得ることだ」と認識されるようになる。また、かつて単なる可能性possibilityに過ぎなかったものが、蓋然性probabilityへと変じる



限界を露呈した者同士の入れ替え不可能な絆

  自明ではない新しい生活様式が急速に拡がることで、それまでは考えもしなかったことが、良かれ悪しかれ「ありうること」として登録されていく。
         ⇒多様化・流動化への免疫

               ⇒論理的な帰結として、社会が良い方向に向かっているのか、悪い方向に向かっているのかが、よく分からなくなってくる

 1960年代、急な郊外化がもたらす場所性の喪失━━自分が住む場所がどんな時間性(歴史)を帯びたどんな場所なのか分からなくなること━━がもたらす「実存的不安」が!!
      ⇒急激な社会変化、即ち、郊外化による多様化と流動性の増大のせいで、自分の輪郭も、他者の輪郭も、ひいては社会の輪郭も、よく分からなくなる

  「何でもアリ」の社会。しかし「自分に」何が起こったのかは心理的キャパシティに収まる範囲でしか明らかにならない。キャパシティを超えたところに何かがあるのではないか。何かとてつもない重要なことが・・・。そうした疑問は「限界状況」を経由した者だけが抱き得るものだ。
        ⇒自分の限界、限界状況を知りにくくなった現代、人は数多のトラブルを経ることによって・・・

        「自分の限界」を互いに露わにした者同士の入れ替え不能な絆

  誰もが「自分の限界」を試されない中、不幸にも試されたものどものみが結び得る入れ替え不能な絆


   世間を知らざるがゆえに数多のトラブルを通じて「自分の限界」を知るに到った者は、不可能を知りつつ不可能性の夢を見る。逆に、世間について勘違いがなく、
 それゆえにトラブルを免除されて「自分の限界」を知る機会を持たざる者は、永久に不可能性の夢を見ない

情報化を通じて「勘違いのなさ」が当たり前になった今日、「勘違いのなさ」(ゆえに相手をよく分かること)と「親密さ」とが両立し難くなった現実

期待外れを回避するべく「勘違いのなさ」に向けて苦闘する私たちだけが、入れ替え可能性に苦しんでいる
007押井守

豊かな社会で完全情報を与えられ、無用な試行錯誤抜きに「可能なこと/不可能なこと」を識別できる時代。
誰も限界を試されず。試されぬがゆえに誰もが同じように見えるという「」

貧しく混乱した社会では、共有された不全感が豊かなサブカルチャー表現を生む。
豊かで平穏無事な社会では、不全感は自意識の問題に個人化され、サブカルチャー的コミュニケーションが貧困になる。


国のことなど考えずに異性やアイドルの話ができる日本
甘美な恋愛ムード
共同身体性ゆえに自分が入れ替え不能だった時代
「不可能性ゆえの可能性」

『4人の食卓』の登場人物が、極限状況を知るからこそ、極限ならざる不幸にいくらでも耐えられるのと似たロジック



008

映画の構造としては、相手の喜怒哀楽を自らのものとする自己投射メカニズムを利用する。

『4人の食卓』
   急激に変化する成長社会を背景に、他人の(ひいては自分の)正体が不明になることに関わる不安を、モチーフにしている

昨今は、大音響、明滅する光、素早い切り返しなどで眩暈をもたらそうとする映画が多い
     ⇒テーマパーク的・アトラクション的



009 「彼ら」とは誰か。我らの「原罪」は贖われるのか。贖罪の可能性と不可能性を描いた映画『パッション』と『CASSHERN』に原罪論の今日的な水脈を見出す


<世界>が偶発性に満ちているのは、私たちが意味的存在だから
 
   <社会>の中の周辺的存在━━いわゆる弱者━━が、根源的な未規定性を暗示するサイファの助けを借りて<世界>に接触した結果、
人間関係の力(横の力)


010 真実を知らずに法螺話に酔う貧しさ。真実を知って法螺話を交わす豊かさ。

  批評や評論を読む所謂「インテリ層」のコミュニケーションと、政治家や小説、映画の人気を支えている所謂「大衆層」のそれとの間に、ディバイド(分断)が進行している。

場ごとに人格モデルを使い分けることが求められる
   本当の自分(自己表現)を括弧に入れ、人格の使い分けを推奨

コミュニケーションからの退却

過剰流動性の中で自身の入れ替え可能性を実感せざるを得ない
   ⇒「選択的鈍感さ」が求められる
       鋭敏な適応をあえて排し、鈍くなることが求められる
   「世の中に真面目に向き合わない方が自分も周囲も幸せになれる」


011
社会が複雑化して期待はずれが頻繁になると、予想外の振る舞いを、相手の心に由来するものだと了解する「心の意味論」が一般化


この日本が「競争では獲得できないもの(親の資力・階級文化・容姿・性別)」もやはり「競争で何かを獲得できると思う田吾作」を見下す「似非競争社会」だと気付く
     ⇒競争ゲームで承認を得られないと気づいた彼女たちは、それぞれゲームの外で承認を得ようとする。承認とは「誰にも敵わないと思われる存在」「あなたしかいないと言われる存在」になることだ。彼女たちは競争ゲームの外で空回りし、それぞれ「怪物」になる
    ⇒「誰もが敵わない存在」を求める自意識の終着点が「怪物」だという悲劇
           悪趣味な性的堕落という誰にも真似できない怪物化こそが、希薄でうそ寒い正しい正面から、ピュアな彼女たちを解放する
   「希薄な正しさ」

012
013
「どこかに行けそうで、どこにも行けない」というモチーフ
「システムの外もシステムの生産物に過ぎぬ」という命題
どこかに行けそうで、どこにも行けない社会

<システム>の外がありえないという意識が共有され「始めた」時代だからこそ、「外への強烈な願望」と「外の不可能性への認識」とが同時に存在でき、痛切なドラマを与えた。

大人も子供も例外なく<システム>の支援を得て生きるのが現代社会なのである。私たちは意識せずに<システム>の「下駄を履く」

<システム>の中に生きる私たち

近代化が進むと、人が解決してきた問題を、<システム>が解決してくれるようになる。自ら天気を予測せずに、天気予報を聴くようになる。むしろ、人の能力は鋭すぎないほうがいい。人が定型内に収まるほうが、<システム>による計算可能性が高まるから

   かくして、昔は許容されていた感覚の誇張が、抑圧され始める。近代がドラッグを禁止するのもそのためである。かくして人は<システム>にとって都合のいい存在へと縮小する。人がそれを受け入れたのは、<システム>が与える豊かさが魅力的だったから

   ⇒「入れ替え不能な我々のために、入れ替え可能な<システム>がある」というより、
    「入れ替え不能な<システム>のために、入れ替え可能な我々がある」と感じられる社会を生きなければならない



014

自由・・・束縛がない状態

「客観的に選択肢があるのに本人が選べない状況」を不自由と呼ぶなら、「①選択肢を知り、選ぶ能力もあるのに、脅迫等の外的制約で選べない場合」と「②選択肢への無知や、判断能力の欠如等、内的要因で選べない場合」とは、社会政策論的にはどちらも同じように重大

「欲望のままに振舞うこと」


二元論から一元論へ、此岸性(しがんせい)から彼岸性へ

ミメーシスから、否定の図式へ


015
メタフォリカルからメトニミカルへ
理解からミメーシスへ
見えるものしか見えぬ輩の不幸を憐れむ

016

017

  最近とりわけ若年層において  解離性


p180

  最近とりわけ若年層において解離化と鬱化が進んでいる。
解離化・・・場に応じて人格を使い分けるあり方
鬱化・・・・・コミュニケーションから退却的になる在り方


80年代以降の新興宗教への参入動機は、激烈な不幸(貧病争)より、希薄さ・退屈さ・実りなさ(入れ替え可能性)である

オウム的な匂い・・・「凶暴な脱社会性」


<社会>を生きられない男が、肉体的苦痛を通じて新たな地平に着地する
<社会>を生きられない男が、あれやこれやカオスを経て、かつてよりも<社会>からずっと離れた場所に着地してしまう


<社会>への絶望
<社会>の外への絶望
荒唐無稽なフェティシズムの肯定

全作品を通じてのモチーフは、「ここではないどこか」が有り得ないがゆえの不全感に満ちた<社会>を、性と暴力で切り裂こうとするが、結局は「ここ」に戻ってしまうという循環形式にある

<社会>の中に正義が見つからない以上、<社会>の外でそれを探すしかない

<社会>の内にせよ外にせよ、「現実と真面目に向き合おうとすると馬鹿を見る」という不真面目な明るさ


018

何は何を引き起こすのか予測し難いカオスの世界

019
020
021


  時代は既に近代成熟期=後期近代。モノの豊かさが達成され、欠乏ゆえの上昇欲求はありえない時代。だから動機付けの枯渇が問題になり、自己推進力の調達が求められていた

「欠落がないのに満たされていない者」が溢れる近代成熟期。彼らは動機付けの根拠を「なぜ、なぜ」と遡及したうえ、「究極の意味=包括的な意味」という全体性へと到達したがる

   複雑な社会では、「うまく生きること」と「まともに生きること」が乖離しがちだ。多くの人は「まともに生きること」を多少犠牲にしつつ、「うまく生きること」を選ぶ。さもないと稼げない。現に「まともに生きること」を犠牲にできないビックは糧を稼げないのだ
       ⇒少々人を騙してでも、商売を成功させようとする根性

025
  彼女らの多くは過剰流動性が引き起こす不安に耐えられずメンヘラー化した。そんな中から、不安に振り回されず、圧倒的にポジティブに生きるロールモデルを示す女性たちが出てきた。彼女らは不安と不信に代わり、幸せと信頼を「生存の美学」として賞賛する。


過剰流動的な社会

「過剰流動異性に無自覚に棹さす(さおさす)生き方」や、それに後続する「過剰流動性が引き起こす不安に支配される生き方」を、再帰的に観察する視点を得たこと。
026
「ショボイ真実を知らぬがゆえに全体性の夢を見る」
「言葉を超えた生々しいもの」

027
人知では、「世界の未規定性」を捉えきることは不可能
<社会>を生きつつも絶えず<世界>の未規定性に貫かれている

「規定されたものへの依存」

032
素朴に家族を生きるのが不可能な今日
出来レース


  流動化し選択化した近代成熟期。かつてならば共住共食から生まれると信じられた情緒的共通前提の如きは、入れ替え可能な茫洋さとして経験されがちで、夫婦や家族の結びつきを必然化する機能はもはや持たない。

凡庸な情緒的共通前提しか構築できない家族

「娘のように振る舞うこと」を売る女子校生と、「父親のように振る舞うこと」を買う中年男

レンタル家族
家族を演じる役割を果たす


033
「ありのままの現実」が虚構と同じ意味しか持たなくなった後期近代。現実を濃密に生きるにはどうしたらよいか
     ⇒過去の捏造・現実の虚構化

過去の自覚的捏造

  「昔はよかった」的なノスタルジーはない。「過去の捏造」によって、現在の粉飾(現実の虚構化)をせずして、《つらく寂しい現実》を生きる術はない



034

シニシズム(冷笑主義)
「<世界>の未規定性へと開かれた感覚」

036

思春期にしか見えぬ風景⇒時代的な再帰性
  躍動する夏の雲、落ち着いた夕焼け空、光が、風がある、疾走が、静寂がある、ただの教室や校庭━━外宇宙━━ではない。思春期にしか見えぬ風景━━内宇宙━━がそこにはある。
    ⇒思春期に見えている風景がいずれ見えなくなるという認識

  昔は見えたものが今は見えない。「昔」は、個人の思春期でも社会の前時代でもあり得る。「思春期の敏感さを取り戻さないと社会は終わる」とのメッセージを引き出してもいい。

  セカイ系・・・自己回復が世界回復に直結する「セカイ系」

  オウム真理教=セカイ系そのもの   サティアン
   ツライのは、ツライ世界があるからではなく、ツライと感じる境地があるだけ。だから修養によって自己陶冶を遂げれば辛くなくなる。修養のための自己陶冶こそが世界革命だ。自己回復さえできれば世界はどうでもいい。━━━━そこでは世界革命が自己陶冶のダシにされる。

<社会>の未規定性
  <社会>自体の不条理に直面しつつ生きる時代は終わり、日常の陳腐さに耐える時代に変わった。日常の陳腐さは<社会>の不条理ではなく、実存の不条理である。


リアリティの多元性

  80年代以降、ツマラナイ「ここ」を生き延びるための「現実の虚構化(新人類系)」「虚構の現実化(オタク系)」の作法が浸透。「ここではないどこか」はオシャレとゲームのマーケティングに


学校=濃密な共同身体性の場⇒牢獄

 コメント一覧 (1)

    • 1. cheap barbour jackets
    • 2014年08月28日 02:53
    • Lightweight and practical, the jacket is a versatile everyday jacket that’s great for throwing over a tee or sweatshirt when a little extra warmth is needed. Authentic jacket.
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